ロック界でも屈指のギタリストの一人と言われるエリック・クラプトンがデビューしたのは1964年、ヤードバーズのメンバーとしてであった。この頃から既にスターの風格を備えており、アルバム"Five Live Yardbirds"では彼が紹介されたときの歓声はひときわ大きい。しかしシングル"For Your Love" を巡る対立から彼はグループを去る。本格的なブルースがやりたかった、というのがその理由だ。後にTVショウでハンブル・パイが同曲を極めてブルージーにカヴァーしたのを聴いてエリックが悔しがったかは伝えられていない。
そうして彼がたどりついたのがジョン・メイオール率いるブルースブレイカーズ。更にその後ブルースブレイカーズで知りあったジャック・ブルースとクリームを結成する。彼を誘ったのは名前が「ブルース」だったからであるという説はあまり信憑性が無いといえよう。この時エリックはうっかりブルースと犬猿の仲のジンジャー・ベイカーを誘ってグループを短命なものにすることに成功している。この頃は時代が時代だったため、エリックもドラッグには手を出していたようで、クリーム解散後、スティーヴ・ウィンウッドのバンド「ブラインド・フェイス」に加入するが、このバンドもアルバム1枚で解散。深刻なドラッグ渦の中、1970年に死亡する。
彼は生涯において基本的にはブルースマンでありつづけ、そのギターも高く評価されている。「3大ギタリストの一人」とまで言われた彼だが、一部では「手が遅い」ともいわれていたようだ。そう言う理由で彼が3大ギタリストと呼ばれた事を疑問視する向きも多い。実際にはジョージ・ハリスン、ピート・タウンゼンド、デイヴ・デイヴィスを3大ギタリストと呼ぶ方が一般的だからだ。
1970年、リオン・ラッセル、スティーヴン・スティルスなどの強力なバックアップでデビューした大型新人ギタリストがいた。それがエリック・クラプトン(2代目)だ。彼はアメリカ人で、それ以前もジョージ・ハリスンやデラニー&ボニーのセッションで名を知られていたが、頭角を現したのはやはりデレク&ドミノスのメンバーとしてであろう。しかし、デュエイン・オールマンの死等からアルコールに浸るようになり、ついにはアルコール中毒で再起不能となり、1971年、惜しまれながらシーンから消えていった。一時はビル・ワード(元ブラック・サバス)と同じ病院で見かけた、との説もあるが、現在では消息は全く不明。死亡した、との説もある。
ピート・タウンゼンド等の大々的なバックアップによる1973年の「レインボーコンサート」でデビューしたエリック・クラプトン(3代目)は80年代まで活動していた。音楽的にはかなり柔軟性があり、様々な音楽の要素を取り入れて見せたところが初代や2代目との大きな違いだ。ギタリストとしての評価もかなり高いが、彼もまた初代同様「手が遅い」との批判を受けていたようだ。しかし1981年のRSOとの契約切れを期に引退。
83年にデビューした4代目は日本でも良く知られており、ヒットも多い。元々金持ちだったらしく、いきなり自らのレーベルからデビュー。3代目までとの大きな違いは、彼がロックアーティストではない、というところに集約されているだろう。ギターも弾くが、ことエレクトリックギターに関しては初代や2代目上手くはない。息子の事故死という痛ましい事故に悲観し、彼も後を追って自らの命を絶ったといわれている。
5代目はむしろアコースティック・ギターの弾き語りを好んでいたようだ。彼もポップス系のバラードシンガーで、4代目の息子を追悼した"Tears
In Heaven"でヒットを飛ばし、評判になった。しかしそのセンスは良いとは言い難く、特に2代目の"Layla"を最悪なアコースティックヴァージョンでカヴァーしたり、3代目の"Wonderful
Tonight"を冗長なアレンジにしたりで、「エリック・クラプトン」全体の評判を落とした。ジョージ・ハリスンとの共演ライヴでもジョージの名曲群に全くセンスの感じられないギターを乗せ、日本中のロックファンから顰蹙を買った。
2001年、「若いお姉ちゃんと楽しく暮らすんだもんね〜」と引退宣言したがすぐに撤回。その後再び引退宣言したりしなかったりで相変わらずの忙しい引退ライフを送っているようだ。