私が出合ったファシリテーションの達人・名人たち

3.NGOのフィールドワーカーは村人の現実を知らない
  -究極のファシリテーター和田信明


<目 次>
 1)ラオスでの再会
2)「田植えは何のため?」

 3)和田ファシリテーションの極意
 4)和田信明とは誰なのか?
 5)最後に・・・和田さんへの謝辞


1)ラオスでの再会
 
 和田信明さんは、飛騨高山に本部を置く国際協力NGO「ソムニード」の創設以来のリーダーです。初めて和田さんと会ったのは、私がシャプラニールの駐在員としてバングラデシュにいた1986年のことでした。その頃、和田さんは、家族でアジアを旅行していたのですが、そのへんは後で述べるとして、当時の私自身のことから話しを始めたいと思います。

シャプラニールは、当時、土地を持たない貧しい農民たちの生活向上を支援していました。私が住んでいたのは首都ダッカですが、いつも村々を回って活動をチェッ クしたり、人々の様子を尋ねたりしていました。ベンガル語もすぐに話せるようになりましたから、外から見れば、家々を訪ねて親しく話しをしている私は、村 の生活に通じ、人々とも深いコミュニケーションが取れているように見えたでしょう。
 しかしながら、私にとって、村人の姿はいつも霧の向こうに霞んでいました。いくら同じ釜の飯を食べても、冗談を言い合ったり、苦労話を聞かされたりしても、 この曇りガラスが晴れることはなく、農民たちの生活の現実に触れている気は全くしませんでした。それがなぜなのか、内心では気が付いていたような気もしますし、単なる思い込みで、本当のところは何もわかっていなかったようにも思います。とにかく私は、村人の現実に踏み込んでいるという手ごたえを感じること ができないままに、3年半の駐在期間を終えてしまいました。
 その後、日本に戻って、バングラデシュの農村のことや、シャプラニールの村での活動のことをしたり顔で語ったり書いたりしながらも、この曇りガラスの感覚が消えることはありませんでした。
 帰国後、東京のシャプラニール本部事務所で数年働いた後、関西に移り、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンという国際協力NGOで働き始めました。その際、アメリカのセーブ・ザ・チルドレンがベトナムで実施している活動に関わったのですが、それを主導しているアメリカ人スタッフには、私に見えないものが確かに見えているようでした。しかしながら、彼らと私のメガネの透明度の違いがどこにあるのか、決定的な理解に至ることはできず、曇りはわずかに薄くなったに過 ぎませんでした。

そのガラスが確実に晴れ始めたのは、2000年2月に和田さんといっしょにある調査団のメンバーとしてラオスを2週間ほど訪ねた際に、彼の村人とのやり取りを目の当たりにしてからでした。調査団の目的は、日本の政府による援助プロジェクトとNGOの支援によるプロジェクトの現場を見て回って、両者を比較したり簡単な評価を行なったりすることでした。
 調査団の団長をつとめた和田さんは、行く先々の村で、率先して村人や担当職員とのインタビューを行なったのですが、その方法やスタイルは、私にとって実に衝撃的なでした。彼は、村人のひとりをつかまえて、執拗に細かな事実を尋ねていきます。あまりに細部にわたっているようで、私たちは、はらはらしながら見ているのですが、聞かれる相手も和田さんも倦むことなく延々とやり取りを続けていきます。こんなやり取りにどんな意味があるのだろうと思って聞いていると、突然、予想もしなかった発言が村人から飛び出してくるのです。
 詳細は忘れてしまいましたが、例えば次のようなやり取りがその典型でした。

ビエンチャン近くのある農村で、ラオス政府農林局は、JICAの支援を受けて荒廃林の植林を村人といっしょに行なっていました。整地や植林に必要な資材費をJICAが負担する代わりに村人は労働力を提供し、その後も、植えた木の世話と森林の管理を村人の責任で続けていきます。木々がある程度大きくなったら、計画的に伐採して販売します。売り上げの一定部分を政府農林局が取り、残りは村人の収入になるという仕組みです。
 村人はその活動の管理運営のための委員会を作っていました。和田さんは、委員長を相手に、「いつ植えたのか?」「樹種は何か?」「どんな作業を誰がしたの か?」などをこと細かに尋ねていきます。委員長はそれに着実に答えていきます。30分近くも細かなやり取りが続き、私がじりじりし始めた頃でした。

 和田さんが尋ねます。「この木は何年後に売るのですか?」
 委員長「15年から20年後くらいかな」
 和田「誰に売るのですか?」
 委員長「えっ、JICAが買ってくれんじゃなかったの?」

 この答えが出てきたところで、和田さんはインタビューをスパッと打ち切りました。周りで聞いていた私たち調査団の面々はもちろんのこと、同行したJICAのプロジェクト専門家やラオス政府の担当職員も委員長の発言に唖然としました。村人に対しては、この活動の仕組みについて何度も何度も説明し、研修を重ね、確実に理解してもらっていたはずなのに、委員長にしてからが、将来、木材はJICAが販売を手伝ってくれるものだと信じ込んでいることが暴露されたからです。JICAからすれば、プロジェクトは数年で終わり、その後はラオス政府森林局がケアを続けるわけで、10年も15年もの先のことに責任が持てるはずがありませんし、仮にできたとしても、そうする筋合いのことではありません。ところが村人は何から何までJICAがやってくれるものだと思っている、つまり強い依存心を持っていたわけです。
 プロジェクトのスタッフ全員が このやり取りの意味に気がついたわけではありませんが、何人かはことの重大さに気がつき、その後、軌道修正を図ったようです。そのせいもあってか、 2005年に私がそこを再び訪ねた時には、村人は主体的に植林地の管理に取り組んでいて、木々もずいぶん立派に育っていました。
 このように和田さんがやり取りを重ねているうちに、必ずと言っていいほど、人々の本音やことの真相が相手の口から飛び出してくるのです。それらの本音や現実は、私がバングラデシュ やネパールの村人からは決して聞いたことのない性格のものでした。もっと言えば、私が無意識のうちに敢えて聞きだそうとしていなかった類のことばを、和田さんは、巧妙なインタビュー術によって、自由自在に引き出して見せたのでした。そこで私はやっと気がつきました。「こういう対話ができなかったから、私と 村人との間は、いつも曇りガラスで隔てられていたのだ」と。
 ただし、その時は、どのような仕組みでそれが起こるのか、そのために和田さんが使っているインタビュー術の秘訣はどこにあるのか、まったく見当がつかないままにただただその妙技に感嘆していただけです。

翌年には、別の調査でインドネシアに同行し、和田さんといっしょに村を回る機会を得ました。そこでも、和田さんは、目の覚めるようなみごとなインタビューを見せてくれたのですが、今も強く印象に残っている場面をひとつ紹介してみましょう。

私たちは、南スラウェシのある村で、農家の若い奥さんを相手に、マイクロ・クレジット(農村小規模金融)の使用状況などについてひとしきり聞き取りを行ないました。周囲を隣近所の人々が大勢取り囲む中、和田さんは、例によってこと細かな質問を重ねていきます。インタビューを切り上げる際に、和田さんは、「長時間、お付き合いしてくださってありがとうございました。本当にお疲れさまでした」とお詫びを兼ねたねぎらいのことばをかけました。すると、彼女は「いいえ、全然疲れませんでした。それより私のことを聞いてもらって本当に嬉しかった。ありがとうございました」と嬉々とした顔で応えたのです。プライバシィに関わるとさえ思えるような詳細で微妙な質問もずいぶんしたはずなのに、彼女はそれを楽しんでいたわけです。決して社交辞令でないことは彼女の表情から確実 に見て取れました。
 和田さんは、このやり取りを、現地語と日本語の通訳を介して行なっていたのですが、通訳を務めてくれた現地出身の大学の先生が、その後、私に陶然とした表情 でこう漏らしました。「なんてすごいインタビューなんでしょう。まるで二人の間に私がいないみたい」彼女によれば、通訳たる自分の存在を、自分自身が忘れるほどに、二人のやり取りがあまりに自然でスムーズだったわけです。
 私は、和田流対話術の仕組みを探ろうという意図を持って、やり取りを観察していました。道すがら、和田さんにいろいろ質問することで、彼の意図するところや勘所についても教えてもらいました。

和田さんの対話術は、とにかくシンプルでした。単純な事実を芋づる式に一問一答の形でただ聞いていくだけです。同行した長畑さん(当時はシャプラニールスタッフ。現在「あいあいネット」主宰)は、現場で早速自分でも試そうとしたようですが、聞いていくうちにすぐに尋ねることがなくなったり、質問を次に繋げ られなくなったりで、討ち死にを重ねるだけでした。そう簡単に真似できるものではないことを、私たちは思い知らされました。
 帰国後、私は、そのメカニズムの解明に自分なりの方法で着手しました。和田さん自身、説明しないままに使っていたので、手法として体系的に語るほど整理も 言語化もされていませんでした。理屈ではなく体で覚えるのが職人芸ですから、それは当然といえば当然なのですが、他者がそれを学ぼうと思えば、ある程度の理論化と体系化はどうしても必要です。私はそれを試みようとしたわけです。
 その後も、和田さんと同行する機会は多く、その都度私は、インドネシアやインドの人々とのやり取りを観察し続けました。やがて、和田さんの対話術の底にある人間観、あるいは人間心理の仕組みの洞察に思いが至るようになってきたのです。
 インドでの例を挙げながら、その一端をお伝えしましょう。 

2)「田植えは何のため?」

2002年にインドのアンドラプラデッシュ州のビシャカパトナムという地方都市に和田さんを訪ねた時のことです。ビシャカパトナムは、ソムニードのインド事務所が置かれているところです。私は、バングラデシュでのマイクロクレジットの経験について、現地のスタッフたちに話しをするためにソムニードから招かれて行ったのですが、それ以外にも、和田さんといっしょに周辺の村を回る機会がありました。

現地のNGOが農山村で始めた新しい適正技術の普及活動の進捗具合を見て欲しいという依頼が和田さんにあり、私も同行しました。その技術というのは、5パーセント方式と呼ばれるもので、水田の中に、その面積の5%程度の穴を掘れば、雨季の間に溜まった水が地面に浸透し、地価の保水性を高め、乾季になっても水田を潤してくれるため、総収穫量を数年間で均せば、それをやらなかった時よりも確実に大きくなるというものでした。普及を担当している現地NGOのフィールドワーカーNさんに伴われて、私たちは坂道を1時間近く登って行きました。歩きながら、Nさんは、その農法の意義や試験的な実施の経緯を説明してくれました。これから訪ねる農民 には、この適正技術の仕組みと意義をよく理解してもらった上で、自発的に試してもらっているとのこと。つまりその農民を普及のキーファーマーとして選んだということでした。
 私たちがその農民・・・名前を仮にKさんとしておきます・・・の農地を訪ねた時、彼はちょうど田植えをしているところでした。田んぼの周囲には、苗の束が置かれていました。和田さんはやおら語りかけました。

 和田「私は和田と言います。日本から来ました。よろしくお願いします。で、早速なんですが、Kさん、これは何ですか?」
 K「稲の苗です。見りゃわかるでしょう。今田植えをしているのです」
 和田「確かにそうですね。でも田植えって、いったい何のためにするのかでしょうかね。私は都会育ちなので、知らないのです。Kさん、ひとつ教えていただけませんか」

K さんは、そんなことも知らないのか、という顔をしながら、説明を始めました。「稲はね、ぱらぱらじかに蒔いても生えるのに、なぜ苗床で苗を育ててから移植するのかといえば、ひとつは強い苗だけ選んで植えるためです。それに直播だとまっすぐに植えられない。ラインがまっすぐになれば作業が楽です。特に除草や稲刈りが楽になる。もうひとつは、田んぼを長い期間使えるので土地が有効利用できる」などなどと、Kさんは得意満面で教えてくれました。

和田さんは、やおら話題を変えて尋ねました。「ありがとうございました。たいへんよくわかりました。勉強になりました。ところで、あの穴(5%方式に従って田んぼの中に掘ってある)は、いったい何なんですか?何のために掘ってあるのですか?」

K「いやー、実は俺もよくわかんないんですよ。ただ、(Nさんを指して)この人がさ、やってくれっていうからやってるんです。彼には日ごろ世話になってるものですから。」

 和田さんは、ここで突然やり取りを切り上げました。「どうもありがとうございました」と頭を下げるとさっさと来た道を帰り始めたのです。この間、わずかに30分あまり。通訳も入れてですから、それほど複雑なやり取りができわけではないのですが、和田さんにとっては、十分でした。現地NGOのワーカー達が説明したことは、農民にはあまり 理解されておらず、彼らは義理で参加しているに過ぎないことがわかりました。これでは主体的な普及が始まるとはとても思われません。
 私はもっとそのことについて、語り合いたかったのですが、和田さんは帰り道には話題を変えて、このことにはほとんど触れないままでした。 

3)和田ファシリテーションの極意

 ここまでは和田さんの技を、インタビュー術とか対話術とか呼んで来ました。しかし、この頃から私は、単なる対話の技能を超えたものと考えるようになりました。ですから、ここからは、それを「和田流ファシリテーション術」と呼ぶことにします。
 通常、ファシリテーターはワークショップや会議などのあらかじめ設えられた場でグループワークの進行を手伝う人というイメージが一般的です。しかしながら、 私は常々、そういう人為的な場でのファシリテーションによる気付きや意識の変化の限界を強く感じていました。一歩、外に出てしまえば、元の現実がまってい て、いくらワークショップで気がついても、すぐにまた意識は元に戻ってしまうということを、自分自身何度も体験してきたからです。
 ところが、和田さんが私に示して見せたのは、そのような人為的な場作りなしに、いかなる場でもファシリテーションは可能であるという事実でした。和田さんと の出会いによって、私がそれまで持っていたファシリテーションの概念を一変されたといえます。それに、そもそもファシリテーションとは何かということも、 特に定義していたわけではありませんでした。私は、和田さんの技を目の当たりにして、初めてファシリテーションの真の意味に行き着いたといえます。
 この「稲作」に関するエピソードは、単純に見えるかもしれませんが、詳細に分析してみると、ファシリテーションに関わるいくつかの非常に重要な原理と技能が凝縮されていることがわかります。そこにどれほど豊かなファシリテーションの奥義が隠されているかということです。
 ラオスやインドネシアで和田ファシリテーションを目の当たりにした時には、独特の職人芸で他人には真似ができないように思えましたが、そこで諦めては、バン グラデシュ以来悩まされ続けてきたガラスの曇りを晴らすことはできません。和田さんの境地に達することはできないにしても、彼に学ぶことによって、私は私 なりのやり方を見つけ出して、曇りガラスの向こうの世界を見ることができるようになるのではないかと考え、和田ファシリテーション術の分析と手法化、体系化に乗り出しました。
 和田さんの手法の分析と並行して、以前から好きだったカウンセリング心理学の本を読んで対話術の基本を復習したり、参加型開発のファシリテーションに関する 書物を紐解き直したりしました。そうしているうちに、やがて、和田ファシリテーション術の秘密の一端が、私の前に姿を現してきたのです。少なくとも私には そのように思えました。
 例えば、先ほどの田植えの話しです。
 まず、和田さんがKさんに「田植えは何のためにするのか」を尋ねたのは、彼と自分との関係を対等にするためでした。外部から来た援助者、しかも、お金を出す 側である外国のドナー団体(現実にはソムニードにはそれほどの資金力はなかったのですが)のリーダーと、資金も公的教育もない村の農民との関係は、そもそ もからして対等ではありません。しかしながら、対等な関係でやり取りできなければ、彼の本音を引き出すことはできません。そこで、和田さんは、対等感を生 じさせる方法として、Kさんの自尊感情(英語でセルフエスティーム。自分のことを尊い、価値があると感じること)を上げようと試みました。つまり、まずは Kさんに自信を持ってもらえるような働きかけをすることで、Kさんが本音を言えるような関係を築こうとしました。それは、ものの見事に成功して、普段なら 決して言わないような発言、つまり「実は俺もよくわかんないんですよ。ただ、Nさんがやってくれっていうからやってるんです。彼には日ごろ世話になってる ものですから」という本音を堂々と私たちの前で述べることができたのです。

「人は、自尊感情が高まれば、心が開かれて本音を語りやすくなる」という人間心理の普遍的な法則に基づいて、和田さんは彼との対話を組み立てていったというのが、私なりの解釈です。
 逆に、人間は、自尊感情が下がると卑屈になりがちです。そうなると心を開いたやり取りが難しくなります。和田さんが、あの場で何もコメントしなかったのは、 現地NGOのスタッフNさんの自尊感情を下げる必要がないと考えたからに違いありません。Nさんは和田さんとKさんとのやり取りを傍で見ることで、自分の 村人への働きかけが表層的に留まっていて、彼らにはほとんど理解されていないことに嫌というほど気がついたはずです。それ以上彼を責める必要はまったくあ りませんでした。
 表面的に見れば、和田さんが、直接ことばを交わしてやり取りしたのは、Kさんとでした。しかしよく考えてみれば、和田さんが本当に働きかけたかったのは、NGOスタッフのNさんに対してであったことがわかります。その仕組みを図示すれば、以下のようになるでしょう。

和田さんが、本当に田植えの意味を知らなかったかどうか、後で尋ねてみたところ、「僕はシティボーイだからね」とにやにやするだけで、本当のことを教えても らえませんでした。ただ確実なのは、あの場で、和田さんは知らないふりをしていたのではなく、本当に教えてもらいたかったということです。私にはどうして もそう見えました。理屈で考えれば、あれは和田さんの作戦であって、ある程度の演技が入っていたことは疑いありません。しかし、和田さんは、自分の役割を 真剣に演じて見せたので、とても演技には見えなかったのでしょう。「役割意識の上に立って、本気で誠実に役割を演じる。これがファシリテーターだ」という わけです。和田さんは「社会的コンテクスト」や「人間関係のコンテクスト」の中で「この場で自分が果たすべき役割」が自然に見えてくるといいます。

これは池住さんのファシリテーションにも通じるものがあるように思えます。「演じる」ことは不誠実に思えるかもしれませんが、自意識に囚われて役割が果たせないよりは、必要な役割を果たすために意識して「演じる」ほうがより誠実な態度ではないでしょうか。私自身、このような考え方に切り換えるのに時間がかかりましたが、少なくとも「ファシリテーターのモードに入る」ことの重要性、その意義については確信でき るようになりました。しょせん、「人生は舞台、私たちは皆、役者」。利己的な目的でなければ、意識して演じていいのではないでしょうか。

前に何度も指摘した「事実を重視した対話術」も合わせて、和田ファシリテーションには、少なくとも以下のような要素が含まれているらしいというのが、私の当面の分析です。 

①本音を引き出す対話術。その基礎にある行動原理の把握。⇒ファシリテーションの技術は行動原理に基づく

→原則(1)セルフエスティーム(自尊感情)が上がれば、人は本音を語りやすくなる。=他者に心を開きやすくなる⇒行動科学

②背後に立つ者に語りかけるファシリテーション術=技能

その最も重要なものが対話術。全ての基本は1対1の会話。これができずにしてグループファシリテーションは出来ない。

③場の理解とスタンス(自分の立ち位置)の取り方、「自然に演技する」ファシリテーターとしての役割の自覚、 
 →ファシリテーターとしての役割を果たしながら自分の立場も確認することは難しい。人と話をしながら、自分の役割や場の流れなどを並行して読む、という2つの作業をすることは容易でない。 

和田さんの名人芸を初めて目の当たりにしたころには、とても真似できないと思っていたのですが、このような分析を進めながら、諦めずに「基本を理解し」、「場数を踏んで」いけば、だんだん「自分のものにしていく」ことは可能だという感触をもてるようになりました。
 2004年からの2年間は、JICAの専門家としてラオスで働くことになり、「場数を踏む」機会を存分に得ました。特に、②を意識しながらラオス人のカウンターパートにメッセージと手法を伝えることに力を注いだことにより、私自身の技能もかなりの程度高まったようです。
 ラオスから帰ってからは、もう一度和田ファシリテーション術を分析しなおし、自分なりに再構築してさらなる体系化を試みています。参加型開発研究所の主催事 業として昨年から始まった「マスターファシリテーター講座」は、その成果を皆さんにお伝えすることを目的にしています。池住さんやカマルさんから学んだ グループワークのファシリテーションの勘所もふんだんに盛り込んでいます。
 また拙著「人間性未来論」の中でも、ソムニードと和田さんのことについて詳しく紹介してあります。 


4)和田信明とは誰なのか?

初めにも書いたように、私が和田さんと最初に会ったのは、1986年、ダッカでのことです。当時、和田さんは、ご家族を伴ってアジアを旅行中でした。すでにフィリピンのNGO支援に関わっていたものの、開発協力の世界についてそれほど深い知見を持っているようには見えませ んでした。現地の人々とのやり取りにしても、私たちと何ら変わることのない普通の会話を交わしているだけのように見受けられました。
 ダッカから戻った後も時々やり取りはあったのですが、徐々に疎遠になり、しばらく会わない時期がありました。数年を経て再開したのが、前述のラオスへの調査旅行だったのです。おそらく5年か6年ぶりだったのではないでしょうか。その時の和田さんは、すでにかもし出す雰囲気からしてどこか別人を感じさせられました。年齢によるものだけではない、貫禄というか迫力のようなものが体から あふれているのを私は感じずにいられませんでした。そして、現場に行ってみれば、あの神業とも言えるような対話術でした。
 その間に和田さんに何が起こり、どのようにしてあの驚嘆すべきファシリテーション術を見につけたのか、私もたいへん興味のあるところで、最近は、機会を見つ けては聞き出そうと試みています。多少、解明できては来たのですが、とはいえ本人もうまく説明できない部分もあり、プライバシィに関わるようなエピソード もあるようなので、ここでは立ち入りません。和田語録を紹介しながら、その一端をお伝えするに留めておくことにします。 

★NGOフィールドワーカーは村人のリアリティ(現実)を知らない
 国際協力の活動現場の村を訪ねた時に、和田さんがいつも口にすることばです。NGOの現場のスタッフは、村に住み込んだり、同じ村に何年も通い続けたりし て、村人と親密に交わりながら、人々の生活の向上や問題の解決を手助けして働くのを仕事としています。ですから、彼らは村のことをよく知っているし、村人 の現実を深く理解しているはずです。外国の支援者、都市に住む関係者など、周りの人の中のほとんどは、そう信じて疑わないでしょうし、本人たちも信じ込ん でいるはずです。ところが、和田さんは、そこに根本的な疑義を投げかけました。敢えて、そこに疑問を投げかけたところから、和田さんの卓絶した現実洞察が 始まったのです。
 和田さんは、インド南部アンドラプラデッシュ州で1980年代初めから活動している地元のNGOであるCSSSのリーダー、ラマラジュさんが来日した際にボラ ンティアとして通訳を務めたことをきっかけに、彼と友だちになりました。その縁で、時々、インドのSSSの現場を訪ね、数日間村に滞在して村の人々と交わ る、ということを長年にわたり続けてきました。そのうち、CSSSの現場のスタッフたちから聞く話しと、自分が直接見聞きする中で理解した村の現実とは、ど こか食い違っているような気がしてきました。
 だからと言って、それ以上のことではなかったのですが、そのうち、ラマラジュさんが、和田さんを頼りにするようになり、ラマさんのために和田さんは一肌も二 肌も脱がなくてはならない状況が、徐々に訪れてきました。しかしながら、和田さんにはCSSSを支えるための資金集めの基盤もなければ、貢献できるような技 術や技能もありませんでした。そこで和田さんは必死で考えたそうです。「僕が親友のラマラジュのためにしてあげられることは何だろう。いったい僕になにが できるのだろう」と。とりあえずの結論は、とにかくCSSSのフィールドワーカーたちに、彼らが言っていることと自分が理解した村人の現実をわかってもらう ように働きかけることで、CSSSの活動の質を上げるのをお手伝いしよう、ということでした。90年代前半頃だったようです。 

★金がなかったことが幸いした
 和田さんが述懐によれば、「僕は、金も技術もなかったから、自分の洞察力とファシリテーション能力を高めること以外に、ラマさんに貢献できることがなかった んだよね。もし金があったら、あんなこと思いつきもしなかっただろう。とすると、その後の僕もなかったことになる。金がなかったことが幸いしたなんて、皮肉なものだな」ということです。
 ただしその技能をどのようにして高めていったのかについて、本人には、はっきりした自覚もなく、特に方法論もなかったようです。私がこうして分析し体系化し たのを聞いて、初めて「なるほど、そういうことだったのか」と本人が言っているくらいですから、まさに職人芸以外の何ものでもなかったといえます。
 しかしながら、その芸がどこまでの高まりを見せたかについては、ラオスでの植林の話しや「田植えは何のため」のエピソードなどを思い起こしていただければ、あまりにも明らかだと思います。

これら二つの例に示しているのは、村人は、団体やプロジェクトの建て前に従うふりをしているが、本音ではそれを理解し受け入れているわけではないのに、村人との間でその手の建て前の話しを繰り返しているうちに、フィールドワーカーは、場合によっては村人自身も、それが現実であると思い込むようになるというこ とでした。これが「フィールドワーカーは村人の現実を知らない」ということなのです。私の目の前にかかっていた曇りガラスの正体もまさにこれだったのです。 

★つまるところ、「そういうお前はいったい誰なのか」ということ
 和田さんによれば、NGOのワーカーたちは、自分は村人のために働いていると言いながらも、実は奉仕しているのは、彼が属している団体や実施しているプロ ジェクトのためであるのに、自分ではそれに気がついていません。結局一番必要なのは、「私はいったい誰なのか。私は何のために、誰のためにここにいるの か」ということを各自が自分自身に問いかけるしかない。これが和田さんの結論でした。

5)最後に・・・和田さんへの謝辞

和田さんについて、「神技」、「天才」など仰々しい形容を与えてきました。私の持つ見聞も情報も限られている中、親しい友人に対してこのような過大な評価をして 本当にいいのか、迷わないわけではありません。その一方で、私が開発援助の世界で出会ったり評判を耳にしたりした多くの人々の中には、欧米人も開発途上国の人々も含め、和田さんに匹敵する方はおろか、比較の対象になる人さえほとんどいないのが現実です。
 さらには、ここで紹介したエピソードはかなり前のもので、最近では、和田さんの技術と洞察力にさらに磨きがかかってきたことを、またたびたび目撃しています。技を極めるというのは、まさにこういうことだろうとしみじみ思わされています。

和 田さんのおかげで、私の目の前にかかっていた曇りガラスは、徐々に透明度をまし、かつてのような隔靴掻痒の感覚は、もうありません。もちろん、何でもよく見えるというわけではありません。ただ、誠実にことに臨み、うまず弛まず精進すれば、いつかは必ず道は開けるということを、実感を伴って理解させて下さっ た究極のファシリテーター和田信明さんに対しては、いくら感謝しても足りません。

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